村上春樹『アイロンのある風景』 感動ポルノに擬態する純文学


 

感情の大衆文学、知性の純文学

もし本作が、三宅さんと順子が孤独を分かち合うことが主題のセンチメンタルな小説だとしたら、
それは純文学ではなく大衆小説になる。純文学は感情ではなく知性で表現するジャンルだからだ。
純文学作家が阪神・淡路大震災のような現実に起きた不幸に触発された小説を書く場合、
それは情に訴えるタイプの感情的な小説ではなく、知的に高度な、批評的な小説であるべきだ。
 
村上春樹は一応は純文学に分類されている作家なのだから、本作も純文学小説に違いない。
そう仮定して、本作が純文学に分類される根拠を考えてみた。
 

『アイロンのある風景』

本作の気になる謎は、『アイロンのある風景』の絵が、一体何の身代わりなのかということ。
絵の題名が小説の題名にもなっているし、これは重要なことに違いない。
 
結論から言うと、この絵が身代わりをしているのは三宅さんの焚き火だろう。
三宅さんは焚き火を美術作品のように考えている。だから暗い浜辺で上等な流木を拾い集めて、
オブジェのように巧妙に組み上げ、流木の自発性を演出する(それが美しいから)ように
ゆっくり火をおこす。
そして、この小説の話の流れを踏まえると、アイロンにもなんだか美しさや趣があるように見えてくる。
アイロンは服を熱するが、服を着るときにはとっくに熱が冷めていて、さっぱりした着心地になる。
この間接的で奥ゆかしい熱の表現に、浜辺の焚き火に匹敵する美を三宅さんは見出したのだろう。
工業製品のアイロンが、それにも関わらず自然美の結晶の焚き火と同様の美しさを持っている、
アイロンは焚き火の抽象表現になりえる、というちょっとしたひらめきが、
この小説の見どころの一つになる。

小説の正体

作者はこの小説を『アイロンのある風景』と名付け、アイロンと浜辺の焚き火に
同じ性質を見出すというひらめきこそが小説の要点であることを明示している。
その上で、作者は読者に対して罠を張る。
小説の中に意味ありげな記述をいくつも置いて、読者をミスリードさせるのだ。
例えば、順子が学校で笑いものになったエピソードや、三宅さんの冷蔵庫の夢、
「焚き火が消えたら、寒くなっていやでも目は覚める」の一文に添えられた傍点、
「束の間の、しかし深い眠りに落ちた」という締めくくりの一文などがそうだ。
こうした記述の数々に惑わされた結果、アイロンと焚き火を結びつけるひらめきを無視してしまい、
焚き火やアイロンは三宅さんの家族の身代わりだとか、冷蔵庫は三宅さん自身のメタファーではないか、
といった情緒的な考察をしてしまう人たちが出てくる。
本作は、その手の意識が低い読者たちを容赦なく道化にする。
この狡猾なトリックこそが、この小説の本性であり、純文学の根拠となる知性なのだ。
 

創造的誤読

私の考察は荒唐無稽で馬鹿げたものかもしれない。
しかしながら、私の考察を後押しするものが、実はこの小説の中に存在する。
順子が『火を熾す』について独創的な解釈を披露してクラスの笑い者になったエピソードや、
三宅さんが焚き火に匹敵する美的価値をアイロンに見出している事実などがそうだ。
そう、何より作者自身が、創造的誤読と呼べるような個性的な小説解釈を奨励しているのだ。
 
 
補足1
道具の価値を美意識に基づいて判定する三宅さんは、アイロンを美しいと判定する一方で、
火や熱の形が一様で無機質なガスストーブやライター、実利目的しかなく創造性に欠ける仕様の焚き火、
物欲や怠惰を象徴するかのような冷蔵庫を否定している。
 
補足2
三宅さんが『アイロンのある風景』を描いた理由は、家の中で焚き火をするわけにはいかないからとか、
魅力的な火を描く腕が無いからとかで、代用としてアイロンを選んだのだ。
 
補足3
アイロンと焚き火に共通点を見出すのは情緒的な解釈だと思うが、それでも構わない。
この部分は、その後に出てくる本命のトリックの補助的な役割に過ぎないからだ。
 
補足4
・『火を熾す』に独自の解釈を見出した順子や、焚き火やアイロンに美を見出す三宅さんから滲み出る、
人並み以上のセンスを持っているからこそ世間とそりが合わないという、鼻持ちならない特権意識。
・おっさんと少女がセクシャルな関係に発展する雰囲気を匂わせる気持ち悪い筋書き
こういうろくでもないことが堂々と書かれているのに、多くの読者は小説を疑うことができない。